皆様は当ホテルのある茅野市が、縄文時代の文化遺産の宝庫であることをご存知でしょうか。縄文時代の国宝6点(土偶5点と火焔土器1点)の内、実に2点が茅野市内の遺跡から出土したのです。その2点の国宝土偶が、ホテルから車で15分の場所にある茅野市尖石縄文考古館でご覧いただけます。当ホテルをご利用いただくお客様にも、ぜひお立ち寄りいただきたい施設の一つです。
当ホテルの立地で近くの文化遺産というとまず諏訪大社が思い浮かびますが、今回はそのはるか昔、太古の時代に栄えていた縄文文化と茅野市について、国宝の土偶を中心にご紹介したいと思います。

まず、1995年に国宝に指定されたのが「縄文のビーナス」です。
今から約13000年から2300年前、1万年もの長きにわたって続いた縄文時代のうち、4000年前くらいにあたる縄文時代後期前半の遺跡から見つかったものの中で、初めて国宝に指定されました。棚畑遺跡という、市内では最大規模の遺跡から出土し、広場の中心にある土坑とよばれる小さな穴の中から、横たわった状態で発見されました。頭部の三叉文と呼ばれる模様と豪華な装飾から土器だと思われたほどですが、吊りあがった切れ長の目や小さなおちょぼ口など、八ヶ岳山麓の縄文時代中期の土偶に特有の顔をもっています。
「縄文のビーナス」が発見された棚畑遺跡からはそれまでに多くの土偶が発見されていましたが、そのどれもが破損しており27cmもの大きさの土偶が完全な形で発見されることはありませんでした。日本で見つかった土偶の多くが壊れているため、これらとは異なり完全な形で埋められた「縄文のビーナス」は、他の土偶とは扱われ方が違ったのではないかと推測できます。


ビーナスといえば、当ホテルの前を通るビーナスラインを思い浮かべる方も多くいるのではないでしょうか。
ビーナスラインという名前は、蓼科山の優美な姿が「女の神」に例えられたことに由来しているため土偶との関連性はありませんが、「縄文のビーナス」が出土した棚畑遺跡の近くをこの道が通っているのは、非常に面白い偶然のように思います。
もうひとつの国宝土偶である「仮面の女神」は2000年に発掘されました。
こちらも「縄文のビーナス」同様、縄文時代後期前半に作られたといわれています。この土偶は、土器と同じように粘土紐を積み上げて作っているため、中が空洞になっています。大形の土偶によくみられるこの形態は「中空土偶」と呼ばれています。
こちらは「縄文のビーナス」とは違い、穴に埋める前に意図的に右足を壊してあったことも特徴です。また、土偶が発見された土坑と近接する穴からは、遺体の顔にかぶせていたといわれる土器が出土しており、これらも附(つけたり=重要文化財や都道府県指定文化財等に指定する際に、関連する物品等を本体と併せて文化財指定すること)として国宝指定を受けています。


この2つの国宝土偶はただ造形が素晴らしいという点に限らず、土偶というものの存在意義についても新たな視点をもたらしました。土坑と呼ばれる縄文人が掘った穴の中に、丁寧に埋められていたことが分かったからです。これらのことから、土偶がただのおもちゃではなく、縄文人にとって何か重要な願いを込めた物だったり、特別な意味を持ったものだったのではないかと考えられるようになりました。
「縄文のビーナス」が発掘された棚畑遺跡からは、他にも数多くの土器が発見され、復元されたものの数は約600点に上ります。縄文時代の前期から江戸時代までの生活の跡が見つかり、特に今から約4000年から5000年前の縄文時代中期〜後期時代のものでは、土器や土偶をはじめ、膨大な量の優れた資料が出土しました。茅野市内の遺跡348か所の内、237遺跡が縄文時代の遺跡とされており、茅野市が「縄文の里」と呼ばれる所以がよくわかります。これらの土偶が発見された遺跡の他にも、茅野市内には、重要な遺跡が多く存在しています。
数多くある遺跡の中で、国特別史跡に指定されているのが「尖石石器時代遺跡」という縄文時代中期の環状集落の遺跡です。国特別史跡とは学術上の価値が特に高く、日本文化の象徴と評価されるもののことを指し、史跡の中でも特に重要なものとされています。こちらの遺跡は日本初の縄文集落研の地でもあり、また、日本で初めて環状集落が発見された場所でもあります。
発掘調査は宮坂英弌(ふさかず)氏が行い、この調査では縄文土器及び石囲炉を手掛かりに住居を探すことを目的としていました。その結果、竪穴住居の跡33棟や、火を炊いた後にみられる炉跡や屋外埋甕などが見つかった一方で、土器に比べ石器の数が極端に少なかったことが疑問視され、これらをよく使う狩猟・採集を行う頻度が少ない、または減少していた可能性が新たに出てきたことで注目を浴びました。狩りや採集の他に生活基盤となる生業、具体的な例として挙げられたのが焼け跡を農地として扱う原始的な農法、焼畑農業が行われていた可能性が出てきたのです。これらのことからこの遺跡は、縄文時代が狩猟採集だけでなく、原始的な農業を行っていたかどうかの論争において重要な証拠となっていることが分かります。当時の高度な定住生活や、複合的な食料獲得手段を解明する上でも貴重な遺跡となっているのです。

ここまでご紹介した国宝土偶2点と尖石石器時代遺跡は、最初にご紹介した尖石縄文考古館でご覧いただけます。ここには当時の竪穴式住居の復元もあり、縄文時代の集落の様子を見ることができます。
ぜひ当ホテルにお越しの際は、足を運んでみてください。
「尖石石器時代遺跡」の他に史跡に指定されている遺跡として、「上之段石器時代遺跡」と「駒形遺跡」があります。
「上之段石器時代遺跡」は昭和17年に尖石遺跡とともに国の史跡に指定されています。この遺跡は縄文時代早期〜平安時代までの長い時代にわたるため、出土する土器も種々様々です。 特に縄文時代晩期の土器は、この山麓では他に例をみないほど豊富で、中部山岳地帯の縄文時代後期末から晩期の様相の一端を明らかにすることができる重要な遺跡となっています。
一方「駒形遺跡」は、西側に桧木沢川が流れており、谷を10キロメートルほど北上すると、霧ヶ峰の黒曜石の原産地にたどり着きます。その黒曜石の加工や全国への供給に関与していた場所と推測されています。縄文時代の竪穴住居106軒と多数の土坑、そのほか旧石器時代の遺物や平安時代の住居址、中世の遺構などが見つかっています。
ではなぜこの土地に、これほど多くの遺跡が残されているのでしょうか。ここからは、茅野市でこれほどまで縄文文化が発展した主な理由を掘り下げていこうと思います。
まず最初に挙げられるのは、豊富な動植物が生息していることだと想像がつきます。八ケ岳山麓には現在でも豊富な木の実や山菜、川魚などが生息し、それを食べる動物も多く生息しています。これらの動植物が、縄文時代の人々にとっての食料になり衣服や住居の材料にもなっていたのです。八ヶ岳山麓の豊かな自然は、縄文時代の人々の「衣食住」を担っていたと考えられます。
また、2つ目の理由として集落作りに適した地形であったことも挙げられます。八ヶ岳のふもとは、山頂から流れる川が裾野に広がり谷を刻んでいたため、その谷と谷の間の台地を一つの単位として多くの集落を作っていました。日当たりが良く生活に欠かせない水もすぐに調達できるので、集落を作るのには最適な場所だったといえるでしょう。
そして最後に、本州内では最大規模の黒曜石の原産地だったことが大きな理由のひとつとなっています。黒曜石とは、火山のマグマが急速に冷えて固まった天然のガラスです。加工しやすく割れ目が少ないため、ガラスや鉄のない縄文時代に刃物として大変重宝されていたことで有名な石です。北八ヶ岳から霧ヶ峰の和田峠にかけて、地下に埋まった黒曜石を得るために、長期間にわたって人々が地面を掘った形跡が残っています。
霧ヶ峰は生産量だけではなく、その優れた品質から北は北海道、南は三重県にまで供給されていました。
このように、縄文人たちにとっての様々な好条件が重なったことで、この地に多くの集落が作られ現代まで多くの遺跡が残っています。様々な恵みに満ちたこの土地で、縄文文化が花開いたことは必然だったともいえるでしょう。

今回は、国宝土偶2点と特別史跡・史跡に指定されている箇所を紹介いたしました。「縄文の里」と呼ばれるこの土地の太古から続く長い歴史に興味を持っていただけるきっかけになっていれば幸いです。
最後になりましたが、蓼科は美しい自然だけでなく、縄文時代の文化遺産も楽しんでいただける場所です。
ホテルにお越しの際は是非ご覧ください。